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今日一日がまた終わる

Updated: Feb 16





「父が死んで、子どもに対する親のいちばんの仕事は、死を見せることなんじゃないか、と思うようになった」。




ごく最近読んだ、曽我部恵一『いい匂いのする方へ』に記された文章で、この一節がどうしても心にこびりついて離れない。最近、たまたま死について考えているせいかもしれない。



なんだか遠くて近しいような、結局は遠くて遠い市井の人々の死の知らせを、去年の年末から数人聞いた。そしてまるでそれに呼応するかのように、決して少なくない数人のミュージシャンの訃報が大々的に流れてくる。



遠くして近しい、というのは、その人たちがたまたま店というものをやっていたらしいから。自分のような個人店で、年齢もまぁ驚くほどは離れてないのではないだろうか。これはやっぱりいろいろ考えてしまう。



特に現在はSNSというものがあるから、人はそのまま黙って死なせてくれない。アカウントを引き継いで誰かがコメントしたり、あるいは突然のように言葉が止まり沈黙が流れてそのまんまになっていたりする。あれもこれも、いずれも切ない。



50代、60代、70代、80代。自分が聞いたいくつかの死に関して言えば、そのいずれかだろうけど、そして40後半も後半の自分からすれば、正直まったく他人事ではないというか、どれもこれも地続きで、まるで我が事のように思えてしまう。ちょうどそういう年頃なのかもしれない。死の足音を感づくような。




「・・・こんなこと。絶対に、公には言えないんだろうけどさ。でも正直に言って、いつ死んでもいいような気がするんだよね」



公には言えないんだったら書いてはダメなんだろうけど、でも書いてしまう。ここ数日、同年代の友人たちにそんな正直な思いを発してみたのだった。これは僕のまっさらさらの本心である。



子どももまだそんなに大きくないからその責任はあるけれど、これはもう無責任極まる自分のある部分のそれとして、自分の人間としてのまっさらな気持ちはそんなもんだ。別にもういいんだけどないつ何がどうなっても、というような、かなり漠然とした大きな気持ちがここにある。それはどこにも隠しようがない。



お店をやっている人で、店舗を増やしたいとかもっとやりたいことがあるとか、いろいろ希望や野望がある人もあれこれ聞いたりする。年齢的なものもあるのだろう。でも自分には正直そんなものはどこにも見当たらない。実は店を開いた当初から見当たらなかった。それはやっぱりざんねんながら、とか書くべきなのだろうか。でも別に本当に、ざんねんでもなんでもないんだけど。



自分は20代をほぼほぼ社会に何も貢献せず、親の脛を齧りに齧りながら骨の髄までスープにまで取りながらカルチャーどっぷりに時間を使っては蛹のように過ごし、30前になってようやく少しきちんと働き出してどっかに貢献し出し、その終わりごろには今の店をたまたま出すことになった。それはいわば、棒にふった20代の総決算のようなものであり、ようやく無駄な日々が陽の目を見たようで喜ばしく嬉しく、正直それだけでもう満足だったりする。



昔から夢なんてまるであってなかったようなものけれど、やっぱりそれでも20代は感覚的に地べたを這いつくばってはもがいてもがいて、いったいどうすれば自分を表し曝け出しながら何かをやっていけるのか、延々悩んでいた気がする。それは主に文章において。



まさか自分が店なんてものをやるなんて思いもしなかったけれど、やってみれば、ああそうか、自分の道やあるべき道はこれだったのかもな、と今にしてぼんやり思う。そしてそれだけで、そんな道を見つけただけで、もう満足だったりする。そういう意味で、店を立ち上げたすぐと、10年たった今でも、感覚的になんら変わることがない。自分のような人間が、道のようなものを見つけられただけで、すでにしてハッピーなのだから。



何かを伝えようとしたり勧めようとしたり、一生懸命それをやると、なんと、こんな自分の居場所にも人が来てくれたり、連絡をくれることがあるのだ。それはもう奇跡的にハッピーなことだし、今でもどこかしら信じられない。店で売る作品は決して自分が産み出したものではないけれど、自分がこの目と感覚で選んで、そして自分の言葉がそこに乗っかって、曲がりなりにも本心から勧められるモノ達ばかりだ。自分はそこに嘘はつかない。嘘をつくくらいだったら、もうすでにして辞める。




そういう感覚のまんま、今日いちにち、また生きることができたらば、それでいい。その積み重ねが10年になろうと20年になろうと、もしや明日終わろうと、別にどうだっていい。それは自分の知ったことじゃない。一日を終えて、家族にご飯を作っては一緒に食べて、お風呂に入りながら、無責任な自分の部分がゆっくり静かにそう告げる。今日を生き抜けたら、それでいいのだと。



やっぱりそれは、震災やコロナを経験したからかもしれない。いろんなことを予測したり希望したり、そんなあれこれはあんまり意味なんてなくて、ただただ自分なりに流されつつ今を生きるしかない。それでも、何かをやるなら楽しくないと意味なんてないのだろうから、楽しい物音、自分がドキドキする方へ、なんとなくただただ向かおうとする。そうやって、自然とそれを目指そうとして、今日一日がまた終わる。ほんと、そんな日々です。



さあ。そんな無責任極まる自分のたった現在のこんな言葉を、子ども達が将来聞いたらどうなるのだろうな。でもそうやって日々正直に生き抜いていくことくらいしか、本当の意味で彼らに伝えられることなんて、まるで存在しない気がするのだけど。そうやって少しずつ、あるいは突然に、死を迎えていくことくらい、しか。



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