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あれは幻だった







久々、店にデザイナーの上妻くん(今では少々違う仕事をしているけども)が来てくれて、色々話していると、とにかく僕に何か発信をしてほしい、絶対そうした方がいい、とウルサい。映画とか音楽とかその他諸々、あなたはこれだけ浴びているのだから、それを伝えた方がいいですよ、自分も知りたいし、ということみたいだ。



でも、何度やってもブログは続かない。noteも何度か書いてはみるのだが、何度やってもそのたんびにパスワードを忘れてしまって、そうして何度も新しいページを作ってはダメになる。そのたんびに、この現代における自らの不適合さを痛感することになる。



さらになんというのだろう。以前よりも、どれだけ映画とか音楽に触れても、それを文字で一生懸命誰かに伝えようとする熱意が失せてしまったような気がする。これまでと同じくらいに、いや、それ以上に、それらに触れてたくさん感じてはいるのだけども、それを誰かに伝えて共有したい、という想いが前よりも薄い。これはいったいどうしたことだろう。



みた映画やテレビシリーズ、買ったレコードなどは、できるだけインスタのストーリーには上げるようにしているのだけど、それくらいで満足している自分がいる。そうしてごくたまに誰かからリアクションがあると「へぇ! そんなひといるんだ」と少し喜んで終わりな感じ。



これは年齢もあるだろうけど、でもそれよりは時代が大きいと思う。



つまり、あまりにコンテンツがあり過ぎて、しかもそれらは多種多様で、みるもの聴くものもそれぞれ過ぎて共有ができない。いかにもセンスや趣味が合いそうな友達がいても、微妙に違うものをみたり聴いたりしている。それはそれでお互いに教え合ったりして得るものがあったりするのだけど、一つの作品を共有して深く論じたりすることが、ほぼ、ない。だから、ずっと僕らは平行線のまんまそれぞれの道をゆくことになって、結果、それについてどこかの誰かに熱く書いて伝える、というところまで自分を持っていけない。・・・とそんな感じだろうか。




それじゃあ、そういうゆるやかな断絶のようなものが悲しくて仕方ないかと言えば、僕に限って言えば、そうでもない。のが、また不思議でもあったりする。



例えば、僕らの学生の頃はもう少しこの国も裕福だったような気がするし、その分、カルチャーももっと元気で、それは誰もの身近にあった。現在よりもうちょっとみんなの焦点が合っていたような気もするし、選択肢はたくさんあれど、それらをうっすらと共有している感覚があった。だってこの熊本にだって、あのタワーレコードがあったくらいだ。多分、できたすぐはカルチャー好きに限らず、あの場所に行ったはず。きっと試聴機でなんらかの音楽を聴いたはず。その頃を懐かしむ感じも、わかるといえばわかる。



でも考えてみたら、それが異常だったような気がする。あれは幻だったような気がする。みんなアホみたいにCDを買っていた時代。それを共有していたような錯覚。



そうして今が最高!ともなんとなくも思わないまんま、平熱のような感じで、それでも内にはそれなりに堪えきれないくらい熱いものを感じながら現在を過ごしている。



最近、堪えきれなくなったもの。と言えば、それはもう映画『X(エックス)』になる。









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